その朝、思うところあって、身繕いの最後に手にした口紅を引かずにおいた。鏡の隣で、私の大好きなひとが、ネクタイの結び目を作っていた。
 私は、ネクタイを締める男の手元が大好きだ。メカも扱う、器用な手である。あるべきものを、あるべきかたちに、さっさと整えていく男性脳の出先機関、「手」。
 その、私の存在に関係なく機能する美しい手を見ていたら、なんだか理由もなく仕返しをしてあげたくなったのだ。 そこで、「キスをして」と、嫌がらせをしてみたのである。
 彼は、一瞬怯んだが、ちゃんと我慢をしてくちづけをしてくれた。断る理由が見つからなかったのだ。口紅が付くから、という言い訳は利かないものね。
 男性脳は、ワイシャツに手を通すあたりから、明らかにビジネス用の脳に変わる。ネクタイを結び終えたら、隣で眉を描いている中年のパートナーなんか、もう遥か彼方、異なる時空にあるのである。
 私は、その朝、鏡の前で、愛しい男性脳に起こる空間遷移の瞬間を正確に察知して、なんだか、とても寂しくなったのだ。そこで、仕返し、である。
 彼の方は、今さっき閉じた異次元の世界から、いきなり唇が突き出てきて、大いに戸惑ったはずである。初めてキスするティーンエイジャーの男の子みたいに、深く吸った息を止める。
 私は、愉快になって、特別に官能的なキスをしてあげた。彼は、私の行為を拒んで、朝からことばで絡まれるのと、私の行為を最後まで受け入れるのと、どちらが短い時間で済むかを、明らかに計算していた。そして、一秒で後者を選択し、作業を最も効率よく遂行するために、潔く決心して、蕩けるような甘いくちづけをくれたのである。ホント、良く出来た男性脳だ。
 さて、ついでにもう少しからかってあげることにした。「なんとも面倒くさそうなお顔ね」と、声をかけてみたのだ。彼は案の定、まずいぞ、という顔をする。
 私の大好きなひとは、私のことを、いつまでも、手のかかるお嬢さんだと思っている節がある。今朝の久しぶりのおねだりも、愛情に基づく私のサービスだと信じているのだ。とすると、面倒くさいのがばれたら、もっと面倒くさいのである。私に絡まれて、手を焼いた朝が山ほどあったからね。今、思えば。
「でも、気にしない。私ね、あなたの気持ちをいちいち気にしないことにしたの」
 ほう、と、彼は嬉しそうに笑った。「成長したじゃないか」
 成長? 成長というのは、目標設定と、その充足度評価という組合せでステップアップしていくことよ。あなたは、私たちの関係に何か目標設定したことがあるの? 充足度評価をしたことがあって? よく云うわよ。
 口紅を引きながら、爽やかにそう云ってあげたら、「今日は、ずいぶん、手ごたえのある口を利くねぇ」と、嬉しそうである。「理解、と呼ぼうか」「納得の伴わない、理解、ね」
「それでは、君に、マチュアーということばをあげよう」
エレベータのボタンを押しながら、彼が、そう宣言した。私は、このことば、ちょっと気に入った。だから、「成熟、ねぇ。何を調子に乗ってるんだか」と、たしなめてあげた。
 私は、最近気づいただけである。男性脳というのは、与えられた責務を遂行するために進化した脳なのだ。今夜の楽しさ、明日の嬉しさを自発的に思いつくようにはできていない。したがって、その演出を愛だと信じ込む女の機嫌をどうすることもできないのである。
 だから、女は、男の気持ちを慮ってもしかたがないのだ。自分の機嫌の面倒を、自分で見るしかない。オトナの女と呼ばれてから二十年余り、やっと気づいた真実である。

(「ちくま」2003年5月号掲載)

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